トレイルブレーザー

シボレー・トレイルブレイザー(Chevrolet TrailBlazer)は米GM(ゼネラル・モータース)がシボレーブランドで製造・販売しているSUV。

生産・販売開始は2001年度から、ブレイザー(S10ブレイザー)のスモールサイズSUVと、タホ・サバーバンのフルサイズSUVの中間のボディサイズで"ミドルサイズSUV"を謳っている。(シボレー・ブレイザーを参照)

近年の日本の海外大型SUV人気の中で、一回り小さい存在だが、日本の道路事情などから、そのサイズは根強い人気がある。とは言え、国産のSUVと比べれば確実に"デカ過ぎる"存在と言えるだろう。

日本での販売グレードは、LT・LTZ、ロングホイールベースのEXT LT・EXT LTZの4車種で構成される。

米国でのSSなどのグレードは並行輸入や光岡自動車(BUBU)でしか手に入れることが出来ない。

米国では2006モデルでフェイスリフトが行われたが、日本での正規輸入は始まっていない。

日本への輸入はスズキによって行われていたが、シボレー車の輸入権の移管に伴い、2007年1月1日からゼネラルモーターズ・アジア・パシフィック・ジャパン (GMAPJ) による輸入に切り替えられる。

販売店
スズキアリーナ店 (〜2006年)
GMシボレー店
ヤナセ


Reference from Wikipedia

ヤナセ

株式会社ヤナセ(YANASE & CO., LTD.)は、伊藤忠商事傘下の輸入自動車及び中古車の販売業者(ディーラー)。本社所在地は、東京都港区芝浦。

かつては、多様な欧米自動車ブランドの輸入者(インポーター)でもあったが、2002年までにはそれら全ての輸入権を失った。中古車販売の比率が年々上昇しており、現在の販売台数の概ね45%は中古車である。

歴史

設立
1915年に創業者、梁瀬長太郎が東京都日比谷に設立した「梁瀬商会」が前身。もともとはトラックやバスのコーチビルダー(車体製造業者)としてスタートするが、総合商社三井物産の輸入車部門を長太郎がMBOした。


自動車インポーター時代
GMのビュイック、キャディラックの輸入から始まり、第二次世界大戦中は一時自動車輸入事業を停止していたが、その後二代目の梁瀬次郎会長に経営が引き継がれるとともにGMの各ブランドやメルセデス・ベンツ、フォルクスワーゲン(傘下のアウディも含む)と取り扱い車種を増やした。

1965年、日本への自動車輸入が完全自由化された後に於いても、あからさまに高価な価格設定や、敢えて左ハンドル車を販売するなどにより、日本における輸入自動車を「特殊・特別な存在」に位置付けた。全国に広がるネットワークと、顧客に対するきめ細かいサービスのノウハウなどは高い評価を受け、日本最大手の自動車輸入事業者(インポーター)となり、「輸入車=ヤナセ」と言われるほどの存在になった(実際の輸入業務はヤナセの100%子会社であるウェスタン自動車が行い、販売をヤナセが行うという形態をとっていた)。

梁瀬次郎は、アメリカ車の日本国内での普及に貢献したとされ、2004年に日本人で3人目のアメリカ自動車殿堂(Automotive Hall of Fame)入りをしている。


経営多角化
その後、梁瀬次郎の掛け声の下総合商社への進展を図り、自動車の輸入、販売ばかりではなく、クルーザー(ハトラス他)、アラジンストーブやノースアメリカンベアの輸入、アパレル事業(モラビト他)、宝飾品(フレッド他)の展開、胡蝶蘭の生産、アルファレコードへの資本参加など、経営多角化を行った。


現在
1990年代以降、欧米の自動車会社各社が、自ら設立した日本法人で輸入事業務を行うことが一般化した。販売政策を巡る不和もあり1992年にはフォルクスワーゲンとアウディの輸入権を喪失、2000年以降にはGM系ブランドの輸入権も全て喪失した。現在は自動車輸入事業からは完全撤退し、BMWやボルボを含む多ブランドの新車・中古車を扱う大規模販売業者となっている。ピステンプーリー(特殊キャタピラ車両)などの輸入事業やファッション商品事業は継続している。

経営多角化については、1990年代初頭のバブル景気崩壊とともにほとんどの部門から撤退した。テレビコマーシャル制作会社TCJを保有している。

創業以来梁瀬一族による経営が続いたが、2003年以降は伊藤忠商事傘下での経営再建を行っている。



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株式会社光岡自動車(みつおかじどうしゃ、Mitsuoka Motor Co., Ltd.)は、富山県に本拠地を持つ、日本で第10番目に設立された自動車メーカー。本社は富山県富山市掛尾町508番地の3。

創業は1968年2月。当初は新車および中古車の販売を行い、BUBU(ブブ)という愛称で全国に知られるまでに事業を成長させていった。その後、社長の自動車への思いが昂じて1979年に開発部を設置。1982年2月には50ccエンジンを搭載して自動二輪免許・原付免許で運転が可能なゼロハンカー「BUBUシャトル」を発表した。その後、ゼロハンカーシリーズを展開していく。

1985年の新道路交通法の施行によってゼロハンカーを自動二輪免許・原付免許で運転できなくなったのを機にレプリカカーの開発を開始。1987年に「BUBUクラシックSSK」を発表した。その後、「ラ・セード」、「ビュート」などのレプリカカーを次々と発表していく。

1994年には、ロータス・スーパー7を髣髴させる光岡・ゼロワンを発表、組み立て車として認可された。これにより、光岡自動車は本田技研工業に続く日本第10番目の国産自動車メーカーとして認められることとなる。その後も、レプリカカーの販売を展開、「優雅」(ユーガ)、「凌駕」(リョーガ)、「我流」(ガリュー)などのクラシックテイストあふれる独特のスタイリングの製品を続々と発表していく。

2001年には初の東京モーターショーの参加を実現、ランボルギーニにも匹敵する迫力をもつスーパーカー「大蛇」(オロチ)をショー会場で発表。その高い注目度は、他のメーカーにも勝るとも劣らず、ショーへの初出展を成功へと導いた。2年後となる2003年、商用車ショーも含めて3回目となる東京モーターショーには、「大蛇」のロードゴーイングバージョンと、新型ミドルクラスセダン「ヌエラ」、そして「ゼロワン・コンセプト」を出展。2005年の東京モーターショーでは大蛇のオープンカー版「オロチ・ヌードトップロードスター」を発表している。また、レプリカカー以外に、キットカーと呼ばれるプラモデルのように自分で組み立てることが可能な50ccクラスのマイクロカーシリーズの開発も手がけている。

ユーザーが組み立てるキットカーの販売については、会長の光岡進氏と社長の光岡章夫氏との間で意見の相違がある。現社長である章夫氏は、利益の上がらないキットカーの販売は取りやめるべきとしていた。一方、会長の進氏は、キットカーこそが光岡自動車の創業の意義であるとし、継続を主張していたが、結局進氏のほうが折れた。創業者の最後の願いとして、50ccのマイクロカー「K3」を100台だけ限定生産したが、それを最後に、今後一切のキットカーの販売は中止される。なお、「K3」は発売後一週間で全て売り切れており、プレミアをつけて転売している店も存在する。しかし、光岡は2006年11月にキットカー「K4」の受注を開始。限定220台で発売する。

光岡自動車は上記のオリジナルカーの製造、販売以外に新車販売や直輸入車の販売、中古車の販売を行うBUBUグループの経営も行っている。このルートを通し、2000年にはロンドンタクシーインターナショナル社の総輸入元となっており、さらに2004年にはマレーシアのTDカーズ製MGレプリカカーの輸入も行っている。しかし、2007年3月には、同社が運営する「ランボルギーニ大阪」の内部情報がインターネット上に公開されてしまう事件が起きた。


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K5ブレイザーは、GM社のC/Kトラック・シリーズのSUVでは最も小型である。1969年にシボレーから発売され、フル・サイズのブレイザーは、1995年、シボレー・タホにとって代わられた。また、同じブレイザーで、後に発売されるモデルT-10とS-15(Jimmy)が中型サイズのSUVとして発売されている。この2車は概ね同じ大きさで、K5よりはさらに小型であった。

K5 第1世代(1969-1972)

K5ブレイザーK5は元来、ホイールベースの短いトラックである。1969年に四輪駆動で登場し、1970年に二輪駆動モデルも登場した。パワー・プラントは250立方インチ(I6/4.1L)、292立方インチ(I6/4.8L)、307立方インチ(V8/5.0L)、350立方インチ(V8/5.7L)から選択が可能であった。ブレイザーはフォード・ブロンコに対抗してデザインされ、同じ市場にうって出たのであった。ブレイザーの革新的なポイントは、ホイールベースを短くしながらも、車内のスペースを十分に確保し、プラットホームを共用することでコストダウンを実現したことにある。ブレイザーは瞬く間に人気になった。そのため、ライバル車も同じようなショート・ホイールベースのピックアップ・トラックにモデル・チェンジしていった。


K5 第2世代(1973-1991)

第2世代1973年、モデル・チェンジが実施された。1982年までは後輪駆動のブレイザーも製造されたが、最も売れたのは四輪駆動車であった。1976年取り外し可能なコンバーチブル・モデルが登場し、この後はコンバーチブルのデザインが1991年まで採用されるようになった。1987年、GMは新たにGMT400プラットホームを開発したが、ブレイザーは生産終了まで、古いプラットホームを使っていた。1989年、GMT400シリーズを利用したピックアップ・トラックに似たデザインに変更された。

ブレイザーはオフロード・シーンでは非常に人気があった。その秘密は、力強いパワー・プラントとエンジン・バリエーションの多さにあった。この世代では400立方インチ(V8)エンジンのほか、6.2Lディーゼル・エンジン(V8)もラインナップしていた。1981年、オイルショックの影響で、305立方インチの350立方インチ並みにパワーが得られる高圧縮なエンジンを開発したが、アンダー・パワーであった。


K5 第3世代(1992-1994)

第3世代フル・サイズのブレイザーが1992年、新しいGMT400プラットホームを基に開発され、モデル・チェンジを果たした。パワー・プラントは1種類のみで、5.7L(V8)の210馬力を発するエンジンが搭載された。1995年、ブレイザーはシボレー・タホに取って代わられた。



第1世代(1983-1994)

第1世代 S-15 Jimmy1982年までイスズベースのLUVが販売されていたが、それに代わってS-10ブレイザーが1983年、GMC S-15 Jimmyとともに発売された。スタイリングは第1世代のK5ブレイザーとJimmyをベースとしていた。この小型のブレイザーとJimmyは、先行販売されていた大型のブレイザーのように、2ドアのみが販売された。ベースとなったパワー・プラントはGMの2.0L OHVの4気筒エンジンで83馬力、オプションで2.8L(V6/110馬力)が搭載された。また、排気ガス規制のために、イスズ製1.9L(I4)エンジン、2.2Lディーゼル・エンジンが追加された。


1985年、1.9L、2.0L、2.2Lディーゼル・エンジンに代えて2.5Lエンジンが搭載されるようになった。また1986年にはフューエル・インジェクション・システムが追加された。1990年、4ドアのS-10とJimmyが登場し、このためホイール・ベースが6.5インチ延長された。その後も、エンジン、電子装備、外観に若干の変更が加えられた。



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SUV は、自動車の形態の一つ。Sport Utility Vehicle (スポーツ・ユーティリティ・ビークル)の略で、「スポーツ多目的車」と訳される。

3ドアと5ドアがあり、5ドア車の一部の車種では3列目の座席をもつものもある。

SUV(エス・ユー・ヴィー)とは、スポーツ・ユーティリティ・ビークル(ヴィークル)のアメリカ合衆国での略称。

現在ではアメリカ以外でも使われている。この場合のスポーツは本来、スポーツアクティビティーの意味で、人間側の活動のことである。

アメリカでの自動車のジャンルの呼び方のひとつとして、政府各省や保険会社でも使われる一般的な用語である。ミニバンやRV(アメリカでの本来の意味はキャンピングトレーラーやモーターホームを指す)などと同様、あくまでも用途上での分類であるため、必ずしも「四輪駆動」である必要は無く、駆動方式など、クルマの構成、構造による定義は難しい。

あえて定義するならば、元来の、つまり狭義のSUVは、アメリカ生まれの、荷台にシェルと呼ばれるFRP製の「ハードトップを載せたピックアップトラックの雰囲気を模したクルマ」、となる。

日本車では、古くからアメリカ市場へピックアップを輸出していた二大メーカーの、ハイラックスサーフ60系、テラノD21系が本来のSUVの解釈どおりで、2ドアであること、ピックアップ同様のフロントマスクで室内高が低いこと、取ってつけたような荷室の屋根(FRP製のシェル)や窓を持つこと、跳ねるような硬いスプリングを持つことが特徴である。この2車は日本国内で販売された際は、国内の事情に合わせ、スプリングは柔らかく変更され、ディーゼルエンジンをメインに販売された。さらにハイラックス・サーフにいたっては、維持費の少ない貨物車(4ナンバー登録)中心のラインナップとし、決して利便性に優れたクルマでは無かったにも拘らず、大きな成功を収めた。

ピックアップ好きのアメリカ市場では、この手のクルマに元になったピックアップと同じデザインを与えることが販売上有利であり、不可欠となる。フォードのブロンコは、オフロード走行の適したコイルリジッドのフロントサスペンションと専用ボディーを持ち、理想的なクロスカントリーカーとしてデビューしたが、販売は芳しくなく、2代目へのモデルチェンジの際、同社のピックアップであるF150と同様の車体、サスペンションとなり、高い志と先進性を失ったにも拘らず、販売面では一転、大ヒットとなった例もある。

アメリカのビッグスリーは以前は、小型ピックアップトラックを国内生産しておらず、日本車とバッティングすることも無いため、このクラスの輸入関税は低く設定されており、日本製乗用車の輸入台数を制限する代わりの、一種の優遇措置でもあった。
さらに、これらをベースとした2ドアまでのハードトップ(ボンネットワゴン)も認められたことにより、それまでSUVを手がけたことの無い日本のメーカーが参入することとなり、低価格とスポーティーな雰囲気が受け、一大市場へと発展した。

その後ビッグスリーが小型ピックアップと小型SUVの生産に本腰を入れるようになり、2ドア優遇措置が廃止されると、トヨタ、日産はこぞって4ドアモデルメインにシフト。この機を逃さず日、韓のほとんどの自動車メーカーがこのジャンルに参入。競争が激化することで商品力は急速に高まっていった。ホンダとスバルはフレーム式のシャーシやFRのコンポーネントを持っていなかったことから、自力での開発を諦め、両社ともいすゞと提携することになった。

レクサス・LXやランドローバー・レンジローバー、メルセデス・ベンツ Gクラス (ゲレンデバーゲン)などの高級マーケットでの成功により、それまで「無風地帯」だったビッグスリーのフルサイズSUVにもキャデラック、リンカーンなどの高級ディビジョンが参入、もとよりエントリークラスの位置づけであったサターンまでもがSUVを発表するに至り、もはや全米でのブームは決定的となった。

近年はBMW、ボルボ、ポルシェ、アウディなど、背の高いクルマとは無縁であったメーカー、ブランドが、スポーツカーや高級ステーションワゴンとの隙間を狙ったクロスオーバーSUVなるものをリリース、また、FJクルーザーのようなスペシャリティーも登場しており、あらゆる分野を系統だててきちんと分類することが好きな日本人にとっては、アメリカ流の「おおらかな分類」は益々理解が難しくなってきている。

さらに、日本人がSUVを理解することの妨げとなっているのは、日本国内では、これまで「四駆」と呼ばれていたものが、販売上の都合で「4WD」、「オフロード車」、「クロカン車」、「RV」、「SUV」とコロコロと名前を変え、化けることが多々あり、混乱に拍車をかけている。

SUVとオフロード車、または4WDも必ずしもイコールではなく、米国では、販売台数の増加に伴い、2WDモデルの比率が高まっている。山間部や降雪地の多い日本では、もしものときの「保険」的な考えで4WDが好まれる傾向がある。

かつて四輪駆動、4WDと呼ばれたものが非舗装路(オフロード・グラベル)の走破性に重きを置いていたのに対し、SUVはこれに加えて舗装路(オンロード・ターマック)での運動性能も重視して開発されている。また最近の乗用車ベースで、華美なスタイリングと快適性をウリにしたクロスオーバーSUVの登場により、SUVの定義も「ピックアップあがり」から、高級乗用車へシフトしてきた。

トラックベースとは一線を画す、2000年代に主流となったこの種のSUVは、欧州におけるスバル・レガシィアウトバックの成功と、それに追従したボルボ,アウディ等といった欧州メーカーの、グランドツーリング的なラグジュアリーワゴンの相次ぐ登場と隆盛がその礎となっており、現在も売れ続けるアウトバックをはじめとするこれら車種との差が、必ずしも明瞭でない部分をはらむものが多い。

特に日本ではクロスオーバーSUVはデザイン優先のものが多く、始祖であるワゴンたちよりも走破性能に圧倒的に劣るものさえ少なくない。SUV自体がシーンを選ばない走行性能とデザインを両立しようとする試みの中から生まれた点が否めない一方で、このようにファッション性のみを追求するようなSUVが生まれているというのも、興味深いところではある。

SUVの欠点
元になったピックアップは、牽引のため、低回転域での大トルクが必要なことや、北米市場の好みから、排気量の大きなエンジンを搭載しているものが多く、SUVもそれを引き継いでおり、さらに、頑丈なフレームや足回りの重量と、追加された駆動系など、燃費が悪くなる要因が多い。

しかし、日本においては、最小の規格である軽自動車枠で製造されるスズキ・ジムニーが存在し、海外でも人気が高い。

また構造の頑強さから衝突時に安全な車というイメージがあり、家族や自身のためにこの種の車を購入する人々もいる。

しかしながら実際には、最近の衝突安全ボディを採用した乗用車と比較して自他両方のダメージが大きい自動車である事が知られている。かつてこの手のクルマは、本当に必要な層やクルマ好きなどに限られていたが、ブーム以降、不慣れな「にわか」SUVユーザーが急増し、さらにエクスプローラーとファイアストンタイヤの相性問題から事故が増えた結果、保険料は大幅に引き上げられることになった。これには車重の大きさによる相手のダメージの大きさも関係している。

また国交省の調べでは一般の自動車に比べて最低地上高や車高が高く、視界が広くなるため運転しやすい事から、意外にも運転に自信の無い人や初心運転者に人気が高いともされる。さらにトヨタ店の資料によると年齢的には20代、30代の交通事故発生率の最も多い若年層に人気が高いとされており、これら諸々の事情からSUVに対する危険を呼びかける場合も多々ある(車重の大きさも原因)。 また、同理由(車高が高い)から多くの駐車場に駐車できない事が多く、SUVは路上駐車を助長する要因の一つにもなっている。

米国ではこの種の車のオーナーは舗装されていない場所に山荘を所有していて週末を過ごす人々というイメージがあり、都会においてもこの種の車を所持することはある種のステータスとなっている。

欧米諸国では、燃費が悪く地球温暖化を助長するとして、一部の環境保護団体が大型SUVの乗り入れ規制や増税を求め、ときには破壊活動すらしている。最近では相次ぐガソリン価格の高騰にともないSUVをもじってSuddenly Useless Vehicle(突然使い物にならなくなる乗物)とも呼ばれる。

アイルランドのダブリンにあるトリニティ大学の研究者シムズ講師らによると、米国から取り寄せた重大事故に関するデータを分析した結果、SUVはボンネットなど車体前部が乗用車より高く、歩行者と衝突した場合、歩行者が頭部や腹部などにより深刻な衝撃を受ける恐れがあり、死亡や重傷を負う危険性は最大で乗用車の4倍になるという。1990年代前半から日本などでアクセサリーとしてグリルガード(カンガルーバー、アニマルバー、ブッシュバーともよばれる)を装備することが流行ったが、対人衝突時の危険性が指摘され、プラスティック製の形だけのものへと代わり、現在ではそれも見られなくなった。また、このことから各国で全てのSUV車に対し「地球環境及び歩行者に対して危険な自動車である」旨の車体への表記とパンフレット、広告への表記を義務付ける動きがあるが、自動車メーカーとしては販売台数の低下が懸念されるため、及び腰である。


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シボレー(Chevrolet、略称シェビー、Chevy)はゼネラルモーターズ(GM)の乗用車のブランドであり、アメリカ合衆国では大衆車とSUV、ミニバン。日本ではスポーティカーやSUVのブランドとして知られる。略称がついた由来は「シボレー」が英語圏の人には発音し難いためであるという。

創業者はスイス出身のレーシングドライバー、ルイ・シボレーとGM設立に大きく関わったウィリアム・デュラントで、1911年に設立した。シボレーのエンブレムはそのデザインからボウタイ(蝶ネクタイ)とも呼ばれる。


ベル・エアー(1957年)1920年代、フォード・モデルTがベストセラーとなると、高級車に似せたより近代的なデザインと、豊富なカラーバリエーション(モデルTは黒1色)展開等で対抗し、実用本位だが旧態化したライバルを圧倒し、以来GMは規模面で常にフォードを凌駕する世界最大の自動車メーカーとなった。

その後第二次世界大戦や1950年代の黄金期を経て、長らくGMのブランド階層の最底辺に位置しながら、ごく真っ当な基本設計と時流を的確に捉えたスタイル戦略でアメリカNo.1ブランドの地位を保っていた。1970年代に入ると、石油ショックの影響を受けて小型、軽量化を余儀なくされ、以後、ドイツのオペルや日本のいすゞやスズキ、さらにはトヨタと連携して行く。

アメリカ合衆国以外の国では主にオペル(中南米など)やGM大宇(ヨーロッパ、アジアなど)のリバッジ車が売られている。

日本ではかつて、1927年に日本ゼネラル・モータースが設立され、大阪に組立工場が建設されたことがあった(1941年に操業中止)。 また1995年から2000年までトヨタ自動車がシボレー・キャバリエのOEM供給を受けてトヨタ・キャバリエとして販売していた。


キャバリエ2000年に、シボレー車の輸入権は日本ゼネラルモーターズ(GMJ)の所有となった。ただし、近年はGMとスズキが販売提携を結んでいたため、スズキが2000年からMWのOEM供給を、2001年からはGMとの共同開発車クルーズの生産をそれぞれ開始し、2003年からはコルベットを除くシボレー車の輸入権をGMJから取得してトレイルブレイザー、アストロ、オプトラの取扱を行った。

しかし、2006年3月にGMがスズキの株式の大半を売却したのを機にスズキは事業の見直しを行い、スズキが保有するシボレー車の輸入権については2006年11月にゼネラルモーターズ・アジア・パシフィック・ジャパン(GMAPJ)へと移管すると発表した(資料)。またクルーズの生産についても現行モデル限りで打ち切ることが決まっている。


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ゼネラルモーターズ (General Motors Corporation,NYSE:GM) はアメリカ合衆国ミシガン州デトロイトに本社を置く世界販売台数第2位の自動車メーカーで、アメリカのビッグスリーの一角。略称は「GM」。

1908年9月16日に、ウイリアム・C・デュラントがミシガン州フリントで組織した持株会社がゼネラルモーターズである。デュラントは1903年に創業したビュイック・モーターの経営を翌年任され、社長としてビュイックを全米有数の自動車メーカーにした。デュラントはゼネラルモーターズ創設後、1908年末にオールズモビルを買収し、翌年にはキャディラック、エルモア、オークランド(後のポンティアック)などを買収してGMの一部とした。その後もミシガン州周辺のトラックメーカーを次々買収するが、1910年には買収費用により100万ドルの負債を抱えたデュラントはGMの支配権を失い、バンカーズ・トラストが会社の支配権を握った。

デュラントはその後シボレーの創立(1911年)に関わり、GMの株を買い戻して1916年には社長に返り咲き、シボレーを翌年GMの一部とした。彼の背後には1914年に最初の投資を行って以降1950年代までGMに関与し続けたデュポン社の社長ピエール・S・デュポンがいた。

1920年にピエール・デュポンはデュラントを追い出してGMの実権を奪い、アルフレッド・スローンの経営によって現在に繋がる経営基盤が確立され、政争に揺れたフォードを抜いて世界最大のメーカーとなった。商品方針は「どんな予算でも、どんな目的でも」。このために複数のブランドを所有し、北米では最下段にシボレー(1990年からサターンがシボレーとは別にベーシックブランドとして登場した。また、ジオというブランドが最下層として存在した時期があった)、最上段にキャディラックを位置付け、巧妙なマーケティングと、それに直結したスタイリング戦略で衆目を引き続け、業界シェアナンバー1であり続けた。消費者はGMの提供する上級ブランドに魅せられ、GMの金融サービスによるローンやクレジットで高額のブランド車を買い、クレジットを拒んだフォードを突き放した。

1920年代から1930年代にかけてGMはバス製造会社イエローコーチを買収し、グレイハウンド社の創設を手助けした。またGMは1936年に石油会社スタンダード・オイル・カリフォルニア(のちのシェブロン)やタイヤ会社ファイアストンと共同で「ナショナル・シティ・ラインズ」を創設し、1950年までに全米各地の路面電車会社や電鉄会社を買収し、これをバス運送に置き換えていったが、これは後に自動車関連各社による鉄道縮小の陰謀として非難を浴びた。(Great American Streetcar Scandal、その正確性についてはパシフィック電鉄を参照)

GMは航空機製造に関心を示し、1930年にフォッカーの子会社アトランティック・エアクラフト・コーポレーション・オブ・アメリカを買収しゼネラル・アビエーション部門とし、1933年にはノースアメリカンを買収してノースアメリカンを存続企業としたが、1948年に株を公開し、これ以降航空機には関わっていない。

また初期のフォードは1つの車種を世界中で生産したが、GMは初期から各々の地域毎に多種多様な車種を供給し、そのために南北アメリカ、ヨーロッパ、アジア、オーストラリアなど世界中に生産拠点を設けた。1925年(大正14年)のアジアを視野に入れたフォード社日本進出に続き、1927年(昭和2年)から1941年(昭和16年)まで、大阪に日本法人日本ゼネラル・モータースを設立。シボレー車のアジア向けノックダウン生産および、販売サービスをおこなった。昭和初期の日本国内は、GMのシボレー車とフォード車の独壇場だった。

ドイツではGMはオペルを1931年に子会社とするなど活発な投資を繰り広げ、ドイツでの自動車製造を利益の大きな重要事業とみていた。ナチス台頭後はオペルはGMの支配を離れ、GMはイギリスの子会社ヴォクスホールなどを通じ戦車など軍用車両を製造して第二次世界大戦下で連合軍を支えたが、一方でオペルはナチスの欧州侵攻を支え、GM首脳グレアム・K・ハワードやジェームズ・D・ムーニーらはナチスに個人的に深くかかわり、ムーニーは戦争前にヒトラーから受勲するなどしている。

戦後、1950年代にはGMはアメリカ最大の会社となり、1953年には社長チャールズ・E・ウィルソンはアイゼンハワー政権の国防長官となった。1955年12月末には、GMはアメリカで最初に年10億ドル以上を稼ぐ企業となった。

1970年代以降、石油ショックによって小型車の需要が高まると、それまでアメリカ国内で開発して来た小型車(コーヴェア、ヴェガ等)をオペル、いすゞ等の開発協力を得たモデル(『Tカー』、『Jカー』等)に代替し、また、1984年にはトヨタ自動車との合弁会社『NUMMI』で小型車を生産するなどして、国際化を推進して行った。一方、1990年代前半は、アメリカの好景気を受けてフルサイズSUV・ピックアップトラックなどの販売が好調だったため、高い業績を維持していた。

しかし、近年では原油価格の高騰によるガソリンの値上げなどの影響で収益源の大型車を消費者が敬遠し燃費の良い小型車やハイブリッドカーにシフトする傾向にあり、またGM自体に小型車開発のノウハウが蓄積されてなく(例えば北米市場でのサブコンパクトカーの開発および生産は、かつてはスズキに、現在はGM大宇に行わせている)、この分野で日本車に水をあけられてしまい、そのため販売面で苦戦が続いている。また、過去の従業員の退職年金や医療費負担なども財務を圧迫し、格付け会社からは社債を「投資不適格」にランク付けされてしまった。この影響で、2005年10月中旬には系列の大手部品メーカーデルファイが経営破綻してしまった。このため、自動車ローンの金利優遇や、社員向け販売の価格での一般販売などで在庫処理を図っているのが現状である。

2005年10月になって、資本提携していた富士重工業の株式をトヨタへ売却した。2006年3月には、スズキの株式の大半を売却、いすゞ自動車の株式の売却などにより、資本の集中による経営改善を試みている。2006年7月には大株主投資会社トラシンダからルノー=日産アライアンスとの提携を推奨され協議に入った。これはトラシンダを率いる米投資家カーク・カーコリアンの意向といわれている。しかし、当初よりリチャード・ワゴナー会長以下GM首脳部にはその意思はなく、同年10月に交渉は終了した。売却資産は特別利益になっており、今後、急激な販売減による損失を相殺できた時点より反騰、経営は改善の方向に向かうと考えられる。ただし、今のところ肝心な販売高は回復しておらず、その建て直しが急務となっている。 このところのガソリン高騰の影響を受け販売実績に反映されず、現在はトヨタ自動車グループに抜かれ世界第2位となった。


日本での販売と日本法人
1915年(大正4年)創業の梁瀬自動車が、輸入代理店として、GMのビュイック、キャディラックの販売を開始。ビュイックはビウイク号、キャディラックはカデラツク号だった。のち、シボレー号も販売開始。シボレーは当初よりシボレー(名訳である)。

1925年(大正14年)のフォード社日本進出を受け、1927年(昭和2年)に大阪に日本法人日本ゼネラル・モータースを設立し、組立工場でのシボレー車のノックダウン生産と販売をおこなう。1941年(昭和16年)まで創業。フォード同様、日本だけでなく中国などアジア全体を視野にいれた進出だった。日本における影響は大きく、全国に渡る自動車販売サービス網を構築し、以後の自動車販売業界はここから発展したものである。昭和初期の日本国内は、GMのシボレー車とフォード車の独壇場だった。

1936年の自動車製造事業法施行により、国産メーカーのみに大量生産が許され、発展の余地がなくなり、1941年太平洋戦争開戦の年に日本から撤退。

第二次世界大戦後、再びヤナセが日本市場の販売代理店を長期間つとめる。

現在、日本法人は日本ゼネラルモーターズ (GMJ) とゼネラルモーターズ・アジア・パシフィック・ジャパン (GMAPJ) の2社がある。2006年より、恵比寿ガーデンプレイス(東京都渋谷区恵比寿)から品川シーサイド(東京都品川区)へ本社を移転した。


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